理想と努力
時間があるため、本日2本目です。
自分なりに創意工夫をして幾多の苦難を乗り越えて辿りついた境地こそ自分のベースになり、その人自身が発する言葉にも説得性が増されていくのだと思います。
理想を叶えるためには現実と叶えるための理論との裏付けが必要となり、
精一杯努力してきた経験がある人ほどその土台構築がしっかりできる発想を持っているのではないかと。
前提条件をしっかり定められるため、考えの違う人たちと議論する際にも簡単には論破されることもなくなります。
理想を叶えるためには努力が必要です。
また、その理想が自分だけでなく相手からの協力が必要ならばさらに努力をしなくてはいけません。
その努力は熱意として相手に伝わりますが、相手を動かすのに必要な熱量はそれぞれ異なります。
自身が発するエネルギーが高ければ高いほど、そうした様々な人を多く動かすことができるでしょう。
生半可な気持ちでやっていれば、自分自身努力する気も起きず、相手に熱意が伝わるわけもありません。
理想を叶えるためには、日頃から『考えること・取り組むこと・気づくこと』を意識しておく必要があると思いました。
固定概念
あけおめです~
本年も気が乗りましたら更新していく次第でございますが、よろしくお願いいたします。
さて、世の中の何かを変えたいと思うなら、人々の頭の中のイメージ・固定概念・先入観を変えねばいけないと思います。
先入観や固定概念が生まれる理由としては、
その物事が繰り返されていくうちに、いつの間にか当たり前となってしまうからだと思います。
商業的に「ある時期だけに」「この品種は」と『特別感』を出すためにその物事をある条件をつけて繰り返し行っているとそれが人々に強く印象付けられて、本来その事柄が持つべき姿と違う何かにすり替わってしまうのかなと。
だからこそ、「これはおかしい」と違和感に気づき始める人が現われるんですよね。
ただ、その下に埋もれてしまった本質を再度世間に認識させていくためには新しい発信の仕方が必要で、そのやり方には『発想』が重要になってくるのだと思います。
人々に気づかせるためには、まず、なぜそれが当たり前となってしまったのかという経緯や背景を探ること、それが『過去に聞く』ということで、そこから固定概念・先入観を崩すためには何をすべきかを考える。
これは新しいものを生み出すというより、システムを是正するに近いですかね。
その是正していくプロセスの中で新しいものが生み出されていく感じですね。
と、ここでこう思ったのも、お正月では所々でお箏の音色が聞こえてくるんですよね。
年初めは大好きです。世間で一番日本文化が溢れ出て日本らしくなるからです。
どこに行っても和楽器の音が聞こえてくる。いいですよね~
けども、部活の先輩から「お箏といったらお正月というイメージをなくしたい。」
という話を以前から聞いていて、ふと上記の考えが浮かんだのです。
お正月だけに箏曲を商店街やスーパー、テレビ局も多用するから人々もお箏=お正月という先入観が生まれたのではないかと。
世間が考えるよりもお正月っぽくない、きれいでカッコいい曲はたくさんあるのですよ。
だけども普段からそういった曲を聴く機会がなく、聞くとしたら演奏会に行くという行動を取らないといけないんですよね。
お正月ではそうした行動をせずとも耳に入ってくる状態。
だから、お箏の音色=お正月が定着してしまったのかと。
先輩は「音楽をしないからだ」という視点でメスを入れてましたが、
今回、私はそういう視点を持ちました。
まぁ、先輩の視点としては「音楽として楽器として箏が認識される世界」といっているので、ちょっと違うかもですけどね。
巷で噂の和楽器バンドがそういった印象をどう変えてくれるか少し楽しみでございます。
まぁ、内容としてはお箏に限らずブランド化という部分でも同じように思ったところです。
すべてとは言い切れませんが、そうした『特別感』を出して商品を売り出していくのは、新たな市場開拓としてはアリだと思います。しかし、本来のあるべき姿をすり替えてまでやることなのかなぁと思う今日この頃です。
自分だけの景色
私って将来やりたいこととか明確な目標ってないなーっと思いまして。
まぁ、何も考えずに生きてきた結果なんですけどね。
今まで心惹かれてきた道を歩んできて、なんせ成り行き任せが多かったからですから。
「おもしろそう」「カッコいい」
ただ、その成り行きに任せて出会った事柄には納得のいくまで努力をし結果を納めてきたので後悔はしてないっすね。
成り行き任せでも適当にではなく、確実に物事をこなしていく主義ではあったのでそれが私を救っているなと思います。
やると決断した中でひとつだけ決めてることと言えば、絶対に人の真似はしない。
というより、積極的にそれをやりたい人がいるならば進んで譲って私は他のことをやる。私にしかできないことを見つけていく。
これだけは、自分の主軸にしてる部分ではありますね。
部活動の時は、幹事を担う前にいろいろなごたつきが起こって後輩に同じような目に合ってほしくない一心で、部活内部の考え方を変えなくてはと思い幹事を担ってはいました。
たとえそれが正しい行動だったかはわかりませんが、私はそれが正義だと思ってやってきましたね。私だからこそ見えた部分であり、できる取り組みを最大限行ってきたつもりです。4年生になった今でも。
私は世間に対して特に何かを変えたいとか、そういう意識は抱いてないっすね。
なぜなら特に不満を感じてないから。
誰かがこうしていきたいという目標があって、それが正論であれば私はそれに追随していくでしょう。
私には世間に対してそういう何かを変えたいやしたいという思いが今のところないけども、何かをそうしたいという人に力を提供することはできるからです。
社会にでたら嫌でも世間に目を向けることになりますから、また考えは変わるかもしれないですけどね。
はじめからそういう『世間の何かを変えたい』という思いの下で行動をしている人は本当に素晴らしい方だと思います。違和感の捉え方が鋭いのでしょう。
私は、ようやくその考え方が分かった段階ですね。新しい見方を教わりました。
それぞれ目線や見方は異なりますし、
みんなが気づけてない私にしか見えない景色を探し、それを発信して共有していく。
それが自分の世間で変えたいと思う景色かもしれないし、
誰かが変えたいと思う部分で必要な景色かもしれない。
私は5年後、10年後でそういった景色がみれるようになっていたいですね。
そして景色が見えた段階で自分の長所だと思っている行動力、周りを巻き込む力を発揮するまでです。
そのためには多くを学び、多くを吸収し、消化して考えていくのみですね。
時すでに遅しかもしれないですけど笑
そのための『やるべきこと』は果たしてなんでしょうね?
仕事の発祥
社会人って仕事してるけど、どうやって仕事みつけてるんだろうなぁ
すごいなぁ 自分が社会人になったらちゃんと仕事見つけられるのかなぁ
と、昔から疑問に思ってたのですよ。
で、気づいた。
『やりたいこと』があると、『やるべきこと』が発生するわけですね。
その『やるべきこと』を仕事としてやっているのだとようやく理解しました。
みんなこれとやっていたのですね。
ただし、ここでいう『やりたいこと』っていうのは世の中にどう応えていきたいか、
という内から内ではなく内から外への働きかけなんだと。
就活や企業からの課題でよく「お客様を第一に考えて働く」とざっくり教えられてたわけですが、頭ではなんとなく分かっててもいまいちピンと来なかったんですよね。
で、「お客様に満足」してもらうために、会社がその仕組みを整え提供する。
そういった考えの下で働き、世の中が満足になるよう自分が提供していくことはいずれ自分をも満足させることにつながることなのだと理解しました。
企業というのは企業理念で世間に対してどう貢献していきたいか『やりたいこと』示し、その目標達成のための『やるべきこと』を社員に投げかけていく。
だから、仕事というのは発生するのですね。
今、やっている仕事は本来どういった『やりたいこと』から発生した『やるべきこと』なのか。
また、暇というのは『やるべきこと』がないのと一緒ですが、
実際は『やるべきこと』なんてたくさんあるんですよね。
ただ気づけてないだけ。
そこに気づけるかどうかで命運って分かれるのだと思います。
お天道様はそこらへん、よく見ていらっしゃると常々そう思います。
暇ほど嫌なものはないですね笑
まだ社会人にもなっていないですが、仕事をしくじらないかというより、
ちゃんと仕事を見つけていけるかと心配なじゃs嶋でございました。
発想
最近、企業からの読書課題もあって本を読んでるのですが、
発想を豊かにするためには感受性を(センス)を磨くことが重要だなぁと思いまして。
条件が限られている中で目的を達成するためには発想が重要になり、
その発想こそ感受性によって決まると言って過言ではないと思います。
感受性というのはセンスのことですが、ジャンルで分けると技術や知識、
それこそ感情や思考も入るでしょう。
自分の場合だと、相手からよく意見が制圧的だと言われることがあります。
それは相手の立場や環境下を考えずに自分本位な物事を考えてしまうからです。
その「相手」に対する感受性が低いがために発想も自己中で陳腐なものに下がってしまうのではないかと考えました。
『発想が豊か』っていうのは、多くの事柄に気づき、その解消方法として有効な手段を考えつく思考力だと思うのです。
「気づく」というのもこれまたセンスです。
気づく人がいて、気づけない人もいますから。
固定概念に縛られず、いかに違和感をつかみ取れるかが勝負です。
私としては先述した思考分野以外にも語彙力も磨きたいですね~
きっと、感受性が磨かれれば物事や世の中の出来事がさらにおもしろく映るんでしょうね。
発想豊かになりたいものです。
自分の意見を持つとは。
最近いろいろと迷子なじゃs嶋です。
そんな今日は意見の迷路のご案内です。
私は意見を発し、『自分の意見』が正しいと思える場合は前面に推し出していく。
しかし他の人から正論と思われる意見があると「あーなるほど、そういう発想もあるのか」と思い、私の意見の詰めがまだ甘い場合は「確かに。相手の意見のほうが正しいな」と改め直す。しかし、その人の意見を受け入れた場合に『自分の意見』とはどこにいくのだろうか。
完全に相手の意見を受け入れ、『自分の意見』とするのだろうか。
黄色の絵の具は完全に拭き取られ青色の絵の具だけになるように。
それとも、いろんな話を聞いていくうちに『自分の意見』というのはできていくのだろうか。
黄色の絵の具に青の絵の具が混ざり緑色に染まっていくように。
『自分の意見』というのはどういう風にできていくのだろうか。
まず、『自分の意見』とは相手の意見に疑問を持った時に発生するのだと思う。
疑問を持つということは違和感を感じること。違和感とは自分と他者の違い(差)である。
その違いを認識することで『自分の意見』がはじめて生まれ、確立できるのだと考える。
次に自分と相手との意見の対立によって生じる意見の変化である。
ここでは話し合うことで相手の意見が正論であると自分が捉えた場合である。
私としては、絵の具で例えた事柄の前者はただの受け売りである気がする。
最善なのは後者なのだろう。世の中の様々な意見を聴き、知見を広げることで『自分の意見』に磨きがかかる。
ただ、ここで『自分の意見』が事あるごとに変わっていっても良いのかという疑問がある。意見というのは自分のそう考える根拠があるからこそできるのだと思う。誰かが正論であろう意見を発するたびに変わっていては『自分の意見』と言えるのかどうか。
相手の意見を取り入れつつ『自分の意見』とすることは果たして『自分の意見』と言えるのかどうか。
『自分の意見』をどう作り上げていくか、そして、『自分の意見』をどの程度維持していくか。
社会に入る準備期間だからこそ、自分というものをしっかりと見定めておきたいと思う今日この頃。