自分の意見を持つとは。
最近いろいろと迷子なじゃs嶋です。
そんな今日は意見の迷路のご案内です。
私は意見を発し、『自分の意見』が正しいと思える場合は前面に推し出していく。
しかし他の人から正論と思われる意見があると「あーなるほど、そういう発想もあるのか」と思い、私の意見の詰めがまだ甘い場合は「確かに。相手の意見のほうが正しいな」と改め直す。しかし、その人の意見を受け入れた場合に『自分の意見』とはどこにいくのだろうか。
完全に相手の意見を受け入れ、『自分の意見』とするのだろうか。
黄色の絵の具は完全に拭き取られ青色の絵の具だけになるように。
それとも、いろんな話を聞いていくうちに『自分の意見』というのはできていくのだろうか。
黄色の絵の具に青の絵の具が混ざり緑色に染まっていくように。
『自分の意見』というのはどういう風にできていくのだろうか。
まず、『自分の意見』とは相手の意見に疑問を持った時に発生するのだと思う。
疑問を持つということは違和感を感じること。違和感とは自分と他者の違い(差)である。
その違いを認識することで『自分の意見』がはじめて生まれ、確立できるのだと考える。
次に自分と相手との意見の対立によって生じる意見の変化である。
ここでは話し合うことで相手の意見が正論であると自分が捉えた場合である。
私としては、絵の具で例えた事柄の前者はただの受け売りである気がする。
最善なのは後者なのだろう。世の中の様々な意見を聴き、知見を広げることで『自分の意見』に磨きがかかる。
ただ、ここで『自分の意見』が事あるごとに変わっていっても良いのかという疑問がある。意見というのは自分のそう考える根拠があるからこそできるのだと思う。誰かが正論であろう意見を発するたびに変わっていては『自分の意見』と言えるのかどうか。
相手の意見を取り入れつつ『自分の意見』とすることは果たして『自分の意見』と言えるのかどうか。
『自分の意見』をどう作り上げていくか、そして、『自分の意見』をどの程度維持していくか。
社会に入る準備期間だからこそ、自分というものをしっかりと見定めておきたいと思う今日この頃。